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東京地方裁判所 平成5年(刑わ)2020号 判決

主文

被告人甲野一郎を懲役二年六月に、被告人乙川太郎を懲役二年に、それぞれ処する。

被告人両名に対し、未決勾留日数中各三〇〇日を、それぞれその刑に算入する。

被告人甲野一郎から金一億二〇〇〇万円を追徴する。

訴訟費用中、別紙一記載の各証人に支給した分は被告人乙川の負担とし、別紙二記載の各証人に支給した分は被告人両名の連帯負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人甲野一郎は、宮城県知事として同県職員を指揮監督し、同県内におけるゴルフ場及び宅地造成等の各種開発行為の許可、同県内の市街化区域及び市街化調整区域に関する都市計画の決定・変更、同県が発注する各種公共工事に関し請負業者選定のための指名競争入札の入札参加者の指名、発注予定価格の決定、請負契約の締結等の職務を統括管理していたもの、被告人乙川太郎は、乙川木材株式会社の代表取締役社長として同社を経営する傍ら、イ株式会社の系列会社でゴルフ場の造成等を業とするロ株式会社の代表取締役であると共にイ等が出資して設立した宅地等の造成、販売等を業とするハ開発株式会社の代表取締役社長の地位にあったものであるが、

第一  1 被告人甲野は、平成三年一二月一一日ころ、仙台市青葉区〈地番省略〉所在の同被告人方において、ロの取締役会長であったAらから、同社が宮城県名取市愛島地内にかねてより開発目的で取得していた山林のうち、同市愛島北目字大沢二番一ほかの地域においてゴルフ場を造成する開発行為を行うに際し、同社が同被告人からその開発許可を受けるなどしたことに対する謝礼、及びハ開発が市街化調整区域とされていた同市愛島北目字棟ノ木山一番ほかの地域において販売用住宅用地、工場用地等を造成する開発行為を行うに際し、同被告人から右開発地域を市街化調整区域から市街化区域に変更する決定を行った上、その開発行為の許可を行うなどの便宜な取り計らいを受けたい趣旨のもとに供与されるものであることを知りながら現金一億円の供与を受け、もって自己の前記職務に関し賄賂を収受し、

2 被告人乙川は、前記A及びBと共謀の上、前記日時、場所において、被告人甲野に対し前同趣旨のもとに現金一億円を供与し、もって同被告人の前記職務に関し賄賂を供与し、

第二  被告人甲野及び同乙川は、共謀の上、平成五年一月下旬ころ、仙台市宮城野区〈地番省略〉所在の被告人乙川方において、土木建築工事の請負等を業とするニ建設株式会社代表取締役副社長C、同社東北支店支店長D及び同支店副支店長Eから、同社が宮城県の発注した県立がんセンター病院本館建設工事等を受注するに際し、被告人甲野から指名競争入札の入札参加者に指名されるなどしたことに対する謝礼、及び同県が今後発注する予定の宮城国体関連施設である陸上競技場建設工事等につき同被告人から便宜な取り計らいを受けたい趣旨のもとに供与されるものであることを知りながら現金二〇〇〇万円の供与を受け、もって同被告人の前記職務に関し賄賂を収受し、

第三  被告人乙川は、仙台市長として同市職員を指揮監督し、同市が発注する各種公共工事に関し請負業者選定のための指名競争入札の入札参加者の指名、発注予定価格の決定、請負契約の締結等の職務を統括管理していたFと共謀の上、

1  平成四年一〇月七日ころ、仙台市青葉区中央一丁目一〇番二五号所在の仙台ホテル四階エレベーターホール付近において、土木建築工事の請負等を業とする株式会社ホ代表取締役副社長G及び同社取締役兼東北支店支店長Hから、同社が仙台市の発注した高速鉄道南北線泉中央駅工区新設工事等を受注するに際し、Fから指名競争入札の入札参加者に指名されるなどし、また、同市が同社において下請受注することが内定していた元請のヌ株式会社に葛岡清掃工場建設工事を受注するなどしたことに対する謝礼、及び同市が今後発注する予定の仙台市葛岡粗大ごみ処理施設建設工事等につきFから便宜な取り計らいを受けたい趣旨のもとに現金一〇〇〇万円が供与されるに当たり、これが、同市が右清掃工場建設工事をヌに発注するなどしたことに対する謝礼、及び同市が今後発注する予定の各種公共工事につきFから便宜な取り計らいを受けたい趣旨のもとに供与されるものであることを知りながら右供与を受け、もってFの前記職務に関し賄賂を収受し、

2  同年一一月二五日ころ、仙台市宮城野区〈地番省略〉所在の乙川木材株式会社事務所において、前記C及びDから、ニ建設が仙台市の発注した泉中央土地区画整理事業南北大通線整備工事等を受注するに際し、Fから指名競争入札の入札参加者に指名されるなどしたことに対する謝礼、及び同市が今後発注する予定の仙台駅北部第一南地区再開発ビル新築工事等につきFから便宜な取り計らいを受けたい趣旨のもとに現金二〇〇〇万円が供与されるに当たり、これが、同社がFから各種公共工事の指名競争入札の入札参加者に指名されるなどしたことに対する謝礼、及び同市が今後発注する予定の各種公共工事につきFから便宜な取り計らいを受けたい趣旨のもとに供与されるものであることを知りながら右供与を受け、もってFの前記職務に関し賄賂を収受した。

(証拠の標目)〈省略〉

(争点に対する判断)

第一  県知事・イ事件について

被告人両名の各弁護人は、一億円は被告人甲野の職務の対価として授受されたものではなく、被告人両名にもその認識はなかったのであるから被告人両名は無罪であると主張し、被告人両名もそれぞれ公判廷においてこれにそう事実を供述している。そこで、以下、この点に関する当裁判所の判断を示す。

一  まず、本件において一億円が授受された前後の経緯をみるに、関係各証拠によれば以下の事実が認められる。

1 被告人甲野は、昭和四九年から約一五年間宮城県加美郡中新田町町長を務めた後、平成元年三月に宮城県知事に就任した。

被告人乙川は、昭和四〇年ころから乙川木材株式会社の取引先であったイ製紙株式会社が宮城県岩沼市に製紙工場を建設するに当たり、建設用地の取得に尽力奔走したことから、その社長であるAに引き立てられることとなり、そのころから同社の宮城県内における顧問的立場としての活動をするようになり、系列会社であるヘ株式会社の代表取締役社長を務めた後、昭和六二年には、同社を吸収合併したロ株式会社の代表取締役に就任した。また、同被告人は地元における材木業関係の業界団体の役員をするほか、自民党宮城県連の役員をも歴任して、地元出身ないし地元在住の政治家層にも幅広い人脈を築き上げており、宮城県内における政界と財界とを結びつけるパイプの役割を果たしていた。被告人甲野とは同被告人が中新田町長時代の昭和五〇年代に知り合い、長男の結婚式に招待したり、Aと共に同町を訪ね、同被告人の案内で、同町が建設し全国的にも評判の高かった音楽ホールである「バッハホール」を見学するなどの交際があった。

Aは、昭和一六年にイに入社後、創業者である父の後を継いで昭和三六年には同社代表取締役社長に、昭和六一年には同社代表取締役名誉会長に就任しており、同社を含めた傘下の系列会社をも統括する地位にあったもので、A一族の会社であるロを支配し、その取締役を務めていた。

2 Aは、昭和四〇年代後半ころ、被告人乙川の勧めで自己の経営するト観光株式会社(後にロに吸収合併された。)において、宮城県名取市愛島北目地区の土地約三三〇ヘクタール(後に約三〇ヘクタールを買い増ししたことにより、その面積は合計約三六〇ヘクタールとなった。以下この土地を「愛島地区」という。)を開発目的で買収したが、間もなく、愛島地区を含む周辺地域が宮城県自然環境保全条例に基づく自然環境保全地域に指定されたため、意図していた開発ができないばかりか、購入価格以上の値段で転売することも困難となって、そのまま土地を放置しておくうちに、土地購入を賄った借入金の金利がかさんでいくこととなった。

その後、昭和六一年ころに至り、Aは、愛島地区に対する自然環境保全地域の指定解除を求めて宮城県に対して陳情を重ねていた被告人乙川から、間もなく右指定が解除される見込みであるとの情報を得て、同被告人らに対し、ロにおいて愛島地区の開発事業を進めることを指示し、これを受けた同被告人は株式会社間組等ゼネコン三社の協力を得ると共に、当時、「名取グリーンポート計画」の名称で愛島地区を含む約一〇〇〇ヘクタールの土地の開発を計画していた名取市とも協議しながら、愛島地区における住宅団地等の開発計画を進めていった。そして、同年一二月には愛島地区に対する自然環境保全地域の指定が解除されたが、同地区は、他方で都市計画法に基づく市街化調整区域に指定されており、宅地造成等の開発行為に着手するためには県知事から市街化調整区域から市街化区域に変更する決定を得た上で開発行為の許可を受けることが原則として必要であった。そこで被告人乙川らは、愛島地区において、イの外に前記ゼネコン三社等が出資して設立する新会社を事業主体とした住宅団地等の開発計画を進める一方、昭和六三年にはAの了解を得て、右開発に先行して同地区の一部である約一〇〇ヘクタールの土地を利用し、ロを事業主体として市街化調整区域のままであっても開発が可能なゴルフ場開発計画を進めることとした。

3 ロにおいては、昭和六三年末ころから「名取スカイウェイゴルフ場」の名称で愛島地区における一八ホールのゴルフ場開発計画を本格的に進め、宮城県や名取市の担当各部署との協議を始めた。

ところで、当時、宮城県でゴルフ場開発を行うには、知事告示にかかる「大規模開発行為に関する指導要綱」及びその取扱細則を定めた「大規模開発行為に関する指導要綱取扱要領」に従って宮城県との事前協議を経た上で都市計画法や森林法に関する県知事の開発許可を受けなければならないとされていたが、指導要綱には自然環境を保全し乱開発を防止するとの見地から、新規に開発しようとするゴルフ場の面積と当該開発地域が所在する市町村における既設のゴルフ場の面積との合計面積は、原則として当該市町村の面積の二パーセントを超えてはならないとのいわゆる二パーセント枠の規定が存在した。名取スカイウェイゴルフ場の開発計画は、名取市内に既に存在するゴルフ場の面積と合計すると同市の面積の二パーセントを超えるものであったが、平成元年九月に改正された前記取扱要領に定める例外要件に該当するとされ、平成二年一月二五日被告人甲野の決裁を受けて事実上開発のゴーサインと目されている事前協議準備開始通知を受けることができた。そして、同年九月七日に提出された事前協議申請、都市計画法等に基づく開発許可申請を受けて、同年一一月一四日、同被告人から開発行為を許可され、間もなく造成工事が開始された。

4 この間の平成元年夏ころ、被告人乙川が同甲野を県庁知事室に訪ね、ゴルフ場の計画を県で審査してもらっているが、手続が大変で時間がかかるなどと苦情を述べたところ、被告人甲野は、事務を担当している県保健環境部環境保全課長Nを知事室に呼び、被告人乙川を前にして、N課長に対し「乙川さんの話を聞いてよく指導するように。」などと述べた。

5 Aは、ようやくゴルフ場造成工事の着工にこぎつけ、また被告人乙川からも、「ゴルフ場の開発許可を頂きましたので、仙台に来られたときに甲野知事と食事でもしてください。」などと言われていたこともあって、同年一一月二一日ころ、被告人乙川に手配させた仙台市内の江陽グランドホテルに被告人甲野を招待して会食し、席上、同被告人に対し、「いろいろお世話になりましてありがとうございました。」などと謝礼を述べた。

6 一方、愛島地区における前記住宅団地等の開発計画については、同年八月に至り、Aの了解のもと、イ、間組、ホ、熊谷組及び乙川木材の五社の平等負担により、その事業主体となるべきハ株式会社が設立され、被告人乙川が代表取締役社長に就任した。

同被告人らハ開発関係者は、平成二年度の都市計画区域に関する宮城県の見直し作業において愛島地区の市街化区域編入がなされなければ、次回の見直し予定時期まで更に五年間も待たなければならず、そうなると必然的に右開発計画に大幅な遅れが生じることから、当面する見直し時期に間に合うよう宮城県や名取市の担当部署と協議をしながら計画を進めていった。その間、同被告人自身も、都市計画区域の指定、変更等を主管する県土木部長間所貢に対し右計画の優秀性などを訴えてその売り込みに務めた。

県土木部都市計画課では、県内各市町村と協議を進める中で最終的に各市町村から上がってきた都市計画区域の変更等に関する素案を取りまとめて審査していたが、平成二年八月ころ、被告人甲野はその結果を踏まえて県としての変更案を決定した。愛島地区については、名取市側は市街化区域への即時編入を求めていたが、都市計画課においては、当時、道路整備及び環境アセスメントが未了であるなど、直ちに市街化区域に編入する地域として指定し得る条件がいまだ調っていないとして、右変更案において、同地区を道路整備などの条件が満たされればその時点で市街化区域に編入することが可能な特定保留地区に指定することとし、その後、公聴会や宮城県都市計画地方審議会(以下「都計審」という。)への付議、建設大臣の認可等の手続を経て、平成三年三月二八日、同被告人は同地区を特定保留地区に指定する旨の告示をした。そして、同年一〇月ころには、前記条件を充足したことについて県の大方の了承も得られるに至り、市街化区域編入に向けての基本的な条件も調い、翌年三月の都計審に付議し得る見通しがつくに至った。

7 右のような状況下において、被告人乙川は平成三年一〇月中旬ころ、イ東京本社の名誉会長室にAを訪ね、Aに対し、開発計画の対象地が平成四年三月の都計審に付議される見込みとなったこと、土地所有者であるロから開発業者であるハ開発への愛島地区の土地の売買を年内に行うことが可能となったので、翌年から適用されることとなっていた土地譲渡益に対する特別税率による重課を免れることができそうであることなどを報告したが、その機会に、A及び同被告人は、被告人乙川に対しAの個人資産から現金一億円を供与することを共謀した。これを受けて被告人乙川は、同年一〇月下旬ころ被告人甲野と顔を合わせた機会に、Aが一億円の選挙資金、政治資金を差し上げたいと言っている旨同被告人に伝えたところ、同被告人は驚いたが、殊更、金員提供の趣旨、理由を質すこともなく、また受取を拒否する等の行動にも出なかった。

8 Aは、同年一一月五日ころ、被告人甲野が上京する機会をとらえて銀座の料亭「○○」に同被告人を招待し、被告人乙川らを交えて会食したが、席上、被告人甲野に対し、「いつもお世話になっておりますが、とりわけ名取では大変お世話になりました。名取スカイウェイゴルフ場が完成しましたら、一度お越しください。」などと挨拶した。

9 その後、A及び被告人乙川は、同年一二月中に被告人甲野に一億円を届けようなどと話し合い、これに基づきAは自己が個人所有する株式を売却して得た利益の中から一億円を捻出しようと考え、同年一一月下旬ころ、従前よりAの個人資産を管理していたBに対し、「甲野知事に一億円やることにしたよ。」などと述べてBとも共謀を遂げると共に自己の株式売却代金を供与金の原資とすることについても伝えた。Bは、同年一二月上旬ころ、証券会社から株式売却代金を保管している旨の連絡を受け、現金供与の具体的方法についてAの指示を仰いだところ、Aから、一億円はイ製紙社長室長のMに仙台の被告人乙川のもとまで届けさせるよう指示されたため、Bは証券会社から受け取った代金の中から現金一億円を取り分けてMに渡し、同被告人に届けるよう指示した。

10 Mは、同被告人との間で現金を届ける日時等を打ち合せた上、同月一一日、仙台市内の乙川木材事務所に赴き、Bから託された現金一億円入りの紙袋を同被告人に手渡した。同被告人は、その後知事公舎にいる被告人甲野のもとへ向かい、同被告人に右現金を手渡したが、その際、被告人乙川は、「Aさん個人のお金です。選挙には金がかかるので、甲野さんを育てたいと思って出すんです。Aさんは甲野さんが好きなんです。」などと述べた。

二  以上の経過を踏まえて検討するに、右記載の諸事情、すなわち、A及び被告人乙川の関係する会社が宮城県内において巨額の費用をかけてゴルフ場や住宅団地等の開発事業を進めていたこと、被告人甲野が県知事としてAらの計画するゴルフ場の開発を許可した直後にAらが同被告人を江陽グランドホテルに招待してもてなした上、開発許可を受けたことに対する謝意を述べていること、被告人乙川が同甲野に対し、Aが現金一億円を渡す意向である旨伝えて間のない時期にAらが被告人甲野を料亭「○○」に招いてもてなし、同様にゴルフ場造成に言及する挨拶をしていること、右「○○」におけるもてなしの約一か月後に一億円が供与されていること、一億円が被告人甲野の知事公舎において同被告人に直接交付されていることなどに加え、関係証拠によって認められる次の各事情、すなわち、一億円の授受を明らかにする領収証などの書類が一切作成されていないこと、供与が行われた平成三年一二月から次回知事選挙までにはなお一年以上もの期間があったことなどを総合すると、本件一億円が判示認定のとおりの賄賂であって、被告人両名もその趣旨を十分に認識していたものであることは明らかというべきである。

被告人両名は、公判廷において、一億円が賄賂ではなく選挙資金ないし政治資金である旨供述するが、関係証拠を精査しても、Aが公訴事実記載の時期に、それまで取り立てて個人的交際も選挙応援もしたことのなかった被告人甲野に、突然一億円もの大金を単なる選挙資金、政治資金として供与するだけの特段の理由は見いだし難いのであって、被告人両名の供述は到底信用することができない。

三  被告人甲野の弁護人は、同被告人は市街化区域の編入や開発許可の決裁をしていないので、本件各開発行為の事業主体がイの関連会社であるとは知らなかったと主張し、同被告人も公判廷においてこれにそう供述をしている。

しかし、前記のとおり、被告人甲野は、同乙川が知事室を訪ねてゴルフ場開発についての県の対応等に関する苦情を述べた際、N環境保全課長を呼び、被告人乙川の話を聞いて指導するよう申し向けるなどしていること、A及び同被告人らとホテル、料亭で二度にわたって会食をした際の会話の内容、その際被告人甲野側からは会食の目的、用件などをAらに尋ねた形跡がないこと、被告人乙川が公判廷において、「ハ開発の設立披露パーティの招待状を持参した際、知事に愛島地区で開発の計画をしていることを話した。イということくらいは言っていると思う。知事は名取には親戚がいて分かるが、愛島はどこのこんだかねなどと答えていた。スカイウェイゴルフ場のことについても知事に説明していると思う。ロでやっているということは甲野も分かっていたと思う。」などと供述していることなどに照らすと、被告人甲野において、会社名や事業内容などの詳細はともかくとしても、少なくともイを率いるAと被告人乙川の両名が何らかの形で関係する会社が、愛島地区においてゴルフ場や住宅団地等の開発事業を行っていることは十分に認識し得たものと認められる。弁護人の主張は採用しがたい。

四  なお、検察官は、本件に関し、次のような事実が認められると主張し、各弁護人はその事実を強く否定し争っているので、この点に関する当裁判所の判断を示す。

1 まず、検察官は、被告人乙川が平成元年四月ころ県庁知事室に被告人甲野を訪ね、ゴルフ場や住宅団地等の開発計画について同被告人の協力を要請したところ、同被告人はこれに理解ある態度を示し、以後、同社の開発計画を積極的に支援していったと主張する。

検察官は、右主張を裏付ける証拠として、被告人両名の捜査段階における供述と知事室前室から発見された「1.4.11」という日付とみられる記載の添えられた被告人乙川の名刺の存在を挙げている。もっとも、日付入りのものであるにせよ、単に名刺があるというだけでは、被告人乙川が同甲野のもとを訪ねた可能性のあることが示されるにとどまり、その際の話題、用件などはおよそ知ることができないから、この点は、結局、被告人両名の捜査段階における供述内容を検討することによって解明するほかない。

そこで、被告人両名の供述内容をみるに、被告人甲野の平成五年一一月二八日付け検面調書(県知事・イ事件乙八号証)には、「知事に就任して間もなくの平成元年三月か四月ころ、乙川がハ開発計画に関して建設大臣の優良計画開発事業認定書を持参し、よろしくと頼んでいった。」旨の記載があり、同月三〇日付け検面調書(県知事・イ事件乙九号証)にもほぼ同旨の記載がある一方、被告人乙川の同月二八日付け検面調書(乙五九号証)には、「ハ計画について平成元年三月末ころに建設大臣から優良計画開発事業認定を受け、それから間もなくしてその認定書を持ち、知事室の甲野を訪ね、市街化区域編入を早く行うよう頼んだ。」とある。そして、被告人乙川から右のような依頼、陳情を受けた被告人甲野の態度については、被告人甲野の供述調書には、「知事になったばかりで詳しいことはよく分からないから担当課に相談に行ってくださいと言った。」(県知事・イ事件乙九号証)とあり、被告人乙川の供述調書の中には、「はい分かっていますと答えた。」(乙五九号証)という程度の記載があるにとどまっている。この程度の応対は陳情を受けた知事として通常ありがちなものであることにもかんがみると、右被告人甲野の発言があったからといって、直ちに同被告人が被告人乙川の関係する事業を積極的に支援するとの意味で理解ある態度を示したものであると評価するにはなお疑問を入れる余地があるというべきである。

2 次に、検察官は、被告人乙川が平成元年の春ころ、愛島地区の市街化区域編入の見直し作業を統括する立場にあったO土木部長らに対し、住宅団地等の建設計画を説明した上、被告人甲野がその計画の実現に積極的である旨伝えて協力方を要請したと主張する。

検察官の主張を裏付ける証拠としては、Oの平成五年一一月二七日付け検面調書(県知事・イ事件乙二七号証)に「乙川は、この計画は立派な計画で建設大臣から優良開発事業に認定されている、アメリカの優秀なコンサルタント会社に設計させており、この計画によって愛島地区は発展する、この計画については知事も積極的なんだということを言っていたので、私はこの計画のことをよく知るようになったし、知事もこの計画については積極的に推進する考えなんだなと分かった。」との記載があることが挙げられる。しかし、Oは公判廷において、「乙川から知事が積極的だと聞いた覚えはないが、愛島開発計画はいい計画なので知事も積極的であろうと考えていた。」旨証言して、前記検面調書の記載とは趣の異なる発言をしている上、関係証拠によれば、被告人乙川を含むハ開発の関係者が県の土木部の担当者らに対しゴルフ場及び住宅団地等の開発計画の審査が円滑に進むよう頻繁に陳情していたことが明らかであるが、仮にそのような機会に、Oら担当者が被告人乙川ら開発業者の者から、知事が愛島開発計画に対して特段の肩入れをしていると理解せざるを得ないだけの真実性を伴う発言として「知事が積極的である。」との発言を聞いた場合、担当者としてはそれを鵜呑みにするはずはなく、その直後に知事に対し発言の事実の有無やその意図を確認するなどの行動が伴うものと考えられるところ、関係証拠を精査しても、Oら担当者の間にそのような動きがあったものとは認め難い。したがって、被告人乙川がOの証言するごとき発言をしたかどうかは、極めて疑わしいといわざるを得ないし、仮に右発言があったとしても、それを聞いた担当者が聞き流す程度のものであったと考えられる。

3 検察官は、被告人甲野がハ開発の設立披露パーティに県副知事Pを代理出席させ、同社の事業の成功を祈念する旨の祝辞を代読させて同社の事業を積極的に支援していく姿勢を内外に明らかにするなどして愛島地区における開発構想に理解ある態度を示したことから、県都市計画課ではそれまで消極的であった態度を変えて、愛島地区を市街化区域に編入することとした旨主張する。

しかし、関係証拠を検討すると、宮城県において知事、副知事など県の幹部職員らが民間会社の記念行事に出席して祝辞を述べること自体は特段異例の事態であるとも認め難い上、県関係者が右設立披露パーティで副知事が代読した祝辞の内容を聞くなどして被告人甲野の愛島開発構想に対する態度を知り、それまでの消極的姿勢を改めてこの段階からにわかに市街化区域への編入の手続を急ぐよう行動したなどの形跡はおよそ見いだすことができない。

検察官は、この点に関連して、さらに、被告人乙川が開発予定地の地権者のうち一名の同意がないまま市街化区域への編入手続を進めてもらったものと主張する。しかし、関係証拠によれば、愛島地区の市街化区域への編入については、県の担当職員が名取市の職員からいずれ関係者全員の同意がとれるとの見込みを聞いた上で、同意ありとの前提に立って手続を進めていたものであることが明らかであり、もとより被告人甲野あるいはその意を受けた部下職員が被告人乙川の依頼を受けて関係者の同意の有無にかかわらず手続を進めるよう担当職員に指示したなどの形跡は皆無であるから、検察官主張の事実をもって被告人甲野が愛島開発に肩入れをしていたことの証左とすることはできない。

また、検察官は、被告人甲野がO土木部長に対し愛島地区の市街化区域への編入を督促して開発事業の実現に積極的に協力したと主張し、証拠としてOの検面調書中に、「知事から愛島開発の件はどうなっていると聞いてきた」との記載があること、及びOの公判廷における証言中に、「街造りの説明をした際、甲野が愛島はどうなっていると聞いてきたことがある。」という部分があることを挙げている。しかし、Oの公判証言については、O自身、それが具体的にどのような機会であったかについては覚えていないとしており、発言の時期、内容はあいまいで、Oが右発言を受けてその後どのような行動をとったかについても明確には述べられていない状況である上、検面調書によっても、もともと被告人甲野の発言はそれが市街化区域への編入を督促するものであるとは直ちに受取りがたいものであって、現にO自身も検面調書では右発言と関連した出来事として愛島地区の環境アセスメントの進展状況を尋ねるため保健環境部管理課長早坂国夫のもとへ出かけたというのみで、ほかに愛島地区の市街化区域編入の督促と評価し得るような言動をしたとは供述していないのである。仮に被告人甲野がOに対し愛島地区について何らかの問いを発したことがあったとしても、それが開発事業の実現に積極的に協力する意味における督促といえるようなものでないことは明らかといわねばならない。

4 検察官は、環境保全課では、いわゆる二パーセント枠規制に基づき名取スカイウェイのゴルフ場造成計画には消極的な見方をしていたにもかかわらず、被告人甲野は二パーセント枠規制に科学的、合理的根拠が乏しいとしてその見直しを指示し、さらに同被告人が被告人乙川の陳情を受けた際N環境保全課長に名取スカイウェイのゴルフ場造成計画について迅速処理を指示したため、被告人甲野が積極的に開発許可を与える意向でいるものと認識し、同ゴルフ場に対するそれまでの消極的であった方針を変更して開発許可を与えることとしたと主張する。

検察官の右主張を裏付ける証拠としては、保健環境部長であった伊田八洲雄及びNの公判廷における証言がある。まず、被告人甲野が知事に就任するまでの環境保全課の姿勢について、伊田、Nの両名は次のように証言している。すなわち、伊田は、「昭和六二年取扱要領の例外規定は基準が明確でなく、一つ認めればどんどん歯止めがなくなっていくということもあって、環境保全課では慎重に対応していた。甲野知事の就任前は、名取スカイウェイについて二パーセントをクリアするため、九ホールにしてはどうかとか、どうしても一八ホールというなら管理棟を隣の名取ゴルフクラブと共通にしてはどうかなどという指導をしていたと聞いている。」旨証言し、また、Nは公判廷において、「当時は、自然環境保全の見地から、二パーセント規制をできるだけ守るという基本姿勢をとっていた。昭和六二年取扱要領の例外規定については、要件が不明確で、安易に使ってしまうと拡大解釈の余地もあるのでなるべく使わないようにしていた。名取スカイウェイについては、二パーセントを超過するという点で非常に苦慮していた。昭和六二年取扱要領の例外規定の要件が不明確であったので、名取スカイウェイが例外規定を満足するとは考えていなかった。名取スカイウェイについては、前任の佐藤課長から、二パーセントを超えるため抑制の方向で指導していたという引継ぎを受けている。部下の相澤が二パーセントを超えるので無理だという指導をしているのも見たし、相澤からそういう指導をしていると報告を受けたこともある。」と証言している。

そこで検討するに、Nが引継ぎを受けたという前任の環境保全課長である佐藤幸男も、またNが抑制の指導をしていたという同課自然保護係の職員である相澤義光も、公判廷において、そのような指導をした事実はないと明確に否定する証言をしており、その他関係各証拠を精査しても、環境保全課の職員が二パーセントをわずかに超えるだけの名取スカイウェイゴルフ場の面積について、これを減少させるような指導をしていたとの証拠はこれを見いだすことができないのであって、N証言は信用することができないというほかない。また、伊田証言についても、保健環境部の一般的姿勢として、開発には慎重であったとする部分は首肯しうるにしても、関係証拠の中には、名取スカイウェイゴルフ場の面積を縮小するように指導したとか、隣の名取ゴルフ場と管理棟を共有するなどという指導がなされた事実を見いだすことはできないから、これまた信用性の点で大きな疑問があるといわざるを得ない。したがって、被告人甲野が知事に就任する以前の段階において、環境保全課が名取スカイウェイゴルフ場について、二パーセント以内に面積を縮小しない限り原則として開発を許可しないとの消極的な方針で臨み、開発者に対してもその方向で指導していたと認めるに足りるだけの証拠はないというべきである。

検察官は、また、被告人甲野が二パーセント枠の見直しを指示したことが名取スカイウェイゴルフ場の開発を有利に導くための措置であったかのごとく主張するが、関係証拠によって認められる被告人甲野の発言は、「二パーセントという数字には合理的な根拠があるのか、一律に二パーセントで規制することは個々の市町村の特殊事情に照らして無理があるのではないか。他県の規制状況を調査して専門家にも相談してみてはどうか。」というものであって、必ずしも二パーセントを緩和する方向を示唆する発言とも受け取れないし、もとより名取スカイウェイゴルフ場の開発を許可する方針であることを明示して二パーセント枠を緩和するよう指示したものでもない。そして、その後の取扱要領改正についての検討経過、実際に作成された改正取扱要領の内容、被告人甲野がこれに何らの異議もとどめることなく決裁していること、名取スカイウェイゴルフ場について開発を許可するために宮城県全体の基本方針にかかわる二パーセント枠の見直しを指示するというのは甚だ迂遠で効果のほどの疑わしい行動と考えざるを得ないことなどに照らすと、被告人甲野が右取扱要領の見直しを指示したことと名取スカイウェイゴルフ場の開発との間に直接的な関係があるものとは到底認めることができない。

そうすると、伊田、Nの証言中に、二パーセント枠の見直しについての被告人甲野の発言があったことにより、それまで消極であった名取スカイウェイゴルフ場について建設を認める方向に考えが変わったとある点は、そのまま信用することはできないものといわねばならない。

ところで、被告人甲野の捜査段階における供述中には、平成五年一一月一八日付け検面調書(県知事・イ事件乙四号証)において、「平成元年四、五月ころ、保健環境部長らから、県内のゴルフ場造成の現状や計画中のゴルフ場のうち二パーセント枠との関係で問題となるゴルフ場はどこかなどといった説明を受けた。その当時はゴルフ人気が高まっており、二パーセント枠の緩和なり、弾力的運用を求める声が強いことを知っていたので、県としても自然環境の保全には配慮しながらも、地元住民が賛成し、地域振興に寄与するようなものであれば、二パーセント枠を実質的に広げ、弾力的に運用するようにしてもよいのではないかと思っていた。そこで、保健環境部長らに対しこのような考えを説明して、指導要綱や取扱要領などの見直しをしてはどうかという意見を述べた。保健環境部長らはこの意見にそって検討を重ねた結果、取扱要領の一部改正を行い、ゴルフ場の造成ができる場合を実質的に緩和すると共にその認められる場合を文言化して明確にすることになった。」との記載があり、同月二二日付け検面調書(県知事・イ事件乙六号証)にも同旨の記載があって、被告人甲野の行政姿勢が、保健環境部の当時考えていたそれよりは多少開発側に傾いたものであったことを窺わせる。しかしながら、右検面調書においても、被告人甲野が名取スカイウェイゴルフ場の開発を許可することを念頭において二パーセント枠の見直しを指示したとされているわけではない上、同被告人がどのような点をとらえて改正取扱要領の規定が二パーセント枠の実質的緩和であるとしているのかその根拠が明確ではないことや、改正取扱要領の規定内容及びその改正経過にも照らすと、この検面調書の存在することを根拠として、同被告人が名取スカイウェイゴルフ場の開発許可を行うために二パーセント枠の見直しを指示したものと認定することはできない。

また、被告人乙川の平成五年一一月二六日付け検面調書には、「ゴルフ場の許認可の関係で問題となったのは二パーセントルールだった。この問題があることを市や県の所管部課への陳情等を通じて知った。このルールがある以上、ルールに合うよう設計変更しなければならなくなるかもしれないと感じていたが、甲野が知事になってしばらくして名取市の大友実からだったと覚えているが、県では二パーセントルールの見直し作業をやっているから、しばらく様子を見ていた方がいいと言われた。大友の話の後だったと覚えているが、県では弾力的に適用できるよう二パーセントルールの改正を検討しているか、改正になるかするということを新聞記事で見たような記憶がある。それで、甲野知事がゴルフ場の開発許可に積極的な方針を示し、二パーセントルールも弾力的に適用できるよう改正になることが分かった。甲野知事の時代でなければロが設計変更なしに開発許可を受けることはできなかったはずである。」(乙四一号証)とある。しかしながら、被告人乙川の右供述は、既にみたところに加え、大友実の公判廷における証言の内容や、当時の新聞記事の内容(県知事事件弁三ないし五号証)に照らしても、明らかに事実に反するものであって、信用できないというほかはない。

次に、検察官が環境保全課の消極的な姿勢を改めさせる一つの契機となったとして採り上げている、N環境保全課長に対する被告人甲野の迅速処理方指示の点を検討すると、なるほど、Nは被告人乙川が同甲野のもとに陳情ないし苦情を述べに訪れた場に呼び出され、被告人甲野から、乙川の話をよく聞いて指導するように言われた旨証言しているが、Nも公判廷において、右のような話があったというだけで、自らもその後の処理を急いだわけではなく、また部下に対して特段の指示をしたわけでもない旨証言しているのであり、関係証拠によれば、陳情等の機会に知事室に担当職員を呼んで説明させることが特段異例の取扱であるとは考えられないことをも併せ考えれば、被告人甲野の右発言が、名取スカイウェイゴルフ場について迅速に対応するよう指示したものであって、それがひいて環境保全課の姿勢を変えさせる契機になったなどとは到底認められない。

5 検察官は、本件一億円の供与は被告人乙川が発案してAにもちかけたものである旨主張する。

なるほど、Aは公判廷においてこれにそう証言を行い、被告人乙川においても捜査段階の当初において同様の供述をした事実が認められる。しかしながら、他方、被告人乙川は捜査段階においてその後供述を翻し、Aの側から、「甲野の選挙の金ちょっと面倒みてやろうか。一億でいいかな。他から余りもらわない方がいいから。俺個人の金を出す。」と言われた旨述べ、公判廷においてもほぼ同旨の供述をしている。

そこで検討するに、Aのこの点に関する公判廷における供述は、乙川の口車に乗ってしまったとするなど全体として責任回避的傾向が強いのに反し、被告人乙川は公判廷において、世話になったAをかばって捜査当初うその供述をしたことやその後の供述訂正の経過及び、Aが乙川の言い出したことだとして自己を悪者扱いしたのがずっと心にわだかまり、同人の死後、その子息に対し機会をとらえてこの点を問い質したことがあることなどについて、ごく自然で真に迫る供述をしているのである。被告人乙川は、もともと自己の勧めに基づいてAに大きな借入れを起こさせて購入させた愛島地区の土地がその後自然環境保全地域に指定され、開発も高値の転売もできない状態となり、Aから叱責されるなどして名取市や県に対して懸命に陳情を続けてきていたとの弱みのある立場にあったのであって、そのような者がAに対していきなり一億円もの巨額の供与を持ちかけるというのは、数億円の節税が可能となった時期であることを前提にして考えたとしても、甚だ唐突であって合理性に欠けることに微しても、検察官が主張するように被告人乙川が一億円を供与することを発案してAにもちかけたと認定するには、なお証拠が不足するといわねばならない。

第二  県知事・ニ事件について

被告人甲野の弁護人は、二〇〇〇万円は同被告人の職務の対価として授受されたものではなく、同被告人にその認識はなかったのであるから同被告人は無罪であると主張し、同被告人も公判廷において、二〇〇〇万円は被告人乙川とその友人の支援者らから提供された知事選のための選挙資金を含んだ政治資金として受領したものであるとして弁護人の主張にそう供述をしている。

また、被告人乙川の弁護人は、二〇〇〇万円の趣旨について、第一義的には知事選の選挙資金等の政治資金であり、併せて第二義的にはニ建設が今後とも宮城県発注の工事を受注したいために供与する面もあると概括的に認識していたにすぎないと主張し、同被告人も公判廷においてこれにそう供述をしている。

そこで、この点に関し、当裁判所の判断を示す。

一  まず、本件において二〇〇〇万円が授受された前後の経緯をみるに、関係各証拠によれば以下の事実が認められる。

1 ニ建設東北支店では、被告人甲野が知事となる前の昭和六二、三年ころ、宮城県が県立成人病センターを立て替えて県立がんセンター病院を建設する予定であるとの情報を入手したが、その規模が大きいことや、もともとがんセンター病院の建築工事はニ建設が以前に建てた成人病センターの改築工事であって、業界ではこのような場合に元施工として有利な立場にあると考えられていたことなどから、是非これを受注したいと考え、県に対して熱心に営業活動を行っていた。しかし、平成二年ころになると成人病センターは雨漏りがするなどニ建設を誹謗中傷する噂が流れ、元施工に欠陥があったとすると逆に受注に不利になるとの懸念もあって、支店サイドだけではなく、本社の社長、副社長が県の幹部に対して陳情を行ういわゆる「トップ営業」を行うなど積極的な営業活動を展開した。

一方、被告人甲野は、県知事就任後、保健環境部長などの担当者からがんセンター病院の構想についてその概要の説明を受けるなどしたが、その過程で、がんセンター病院の前身である成人病センターに雨漏りが生じていることや、その施工主がニ建設であることを知った。

2 保健環境部がんセンター建設室では、室長の千田富夫及び技術補佐の斎藤栄希が直前に施工された宮城県総合庁舎建築工事の例などをもとに協議を重ねた末、がんセンター病院本館について大手二企業と地元三企業の五企業からなるジョイント・ヴェンチャー(以下「JV」という。)によって建設工事を行わせることとした。そして、その組合せは企業の自由な意思に任せる方針とし、全体を大きく大手と地元の二グループに分けた予備指名の原案を作成して、指名の実務に通じているO土木部長に相談したところ、地元業者に関する若干の入替えはあったものの、ほぼ原案どおりでよいとの回答を受けた。

そして、平成二年一二月二〇日、ニ建設とチを含むJVががんセンター病院本館工事を工事代金約六一億三〇〇〇万円で落札した。

3 一方、宮城県では平成七年度着工で予定請負金額がどれも一〇〇億円を超える宮城国体関連施設である陸上競技場、総合体育館、総合プールなどの建設工事が計画されており、これは東北地方で今後発注が予定される公共工事の中でも格段に大規模なものであったため、各業者とも、指名あるいは受注に向けて活発な営業活動を展開しており、ニ建設東北支店でも、右工事を受注目標の最上位の一つに据えて、さまざまな営業活動を行っていた。被告人甲野は、そのうち陸上競技場について公開の設計コンペを行い、ニ建設はこれに応募して二位である優秀賞を獲得した。

4 平成四年ころはいわゆるバブル経済崩壊以後の不況のさなかで、ゼネコン各社では、軒並み民間からの工事発注が減少して業績が落ち込んでいる状況にあり、その分、官庁発注の公共工事に対する業者間の受注競争が激化していたため、各業者とも、トップ営業を強化するなどして発注元に対する積極的な営業活動を展開していたが、こうした状況下の同年六月二三日ころ、同社副社長Cらは、知事室に被告人甲野を訪ね、「がんセンター病院の工事も順調に進んでいます。お世話になっています。ありがとうございました。」と礼を述べた上、陸上競技場の設計コンペの話題などを持ち出したところ、被告人甲野は、「ニさんの案はよく考え、構想もユニークでした。一位との差はごくわずかでした。」などと意見を述べた。そこで、C副社長は、「どうもありがとうございます。国体の関係では陸上競技場など大型工事が予定されていると聞いています。今後の発注工事についてもよろしくお願いします。」などと陸上競技場建設工事等の受注についての取り計らいを陳情し、被告人甲野は、「頑張って努力してください。」などと答えた。

その後の同年七月、宮城県は、随意契約によりニ建設に宮城国体関連施設の中の総合体育館の設計を委託した。

5 被告人甲野が翌平成五年二月に予定されている宮城県知事選挙に出馬表明したのを受け、平成四年一二月上旬ころに至り、ニ建設東北支店支店長Dと同支店副支店長Eの両名は、これまでに同県発注のがんセンター病院本館建設工事等を受注できたことに対する謝礼、及び陸上競技場建設工事を含む今後の県発注予定の工事について便宜な取り計らいを受けたいとの趣旨で、被告人甲野に対し、直前に実施された仙台市長選挙においてF市長に渡したのと同額である二〇〇〇万円を選挙資金として供与しようと協議した。しかし、二〇〇〇万円という高額の供与をするについては本社の了解が必要であるところから、D支店長は本社のC副社長に連絡をとり、今回の知事選挙が無風選挙であることを説明した上で、陸上競技場などの件もあるので、この機会に甲野知事を応援しておいた方がいいなどと提案し、その承認を取り付けた。そして、被告人甲野とも親密な間柄にあり、F市長に対して金員を供与した際にも市長側の窓口として具体的な相談をしたことのある被告人乙川にその仲介を依頼した。

6 被告人乙川が、平成四年一二月中旬ころ知事室を訪れ、被告人甲野に対し「ニ建設から知事選挙の陣中見舞いとして二〇〇〇万円を差し上げたいと言ってきた。」旨伝えると、被告人甲野は、躊躇する様子を見せて、「そんなにもらっていいのかね。」などと述べながらも、その供与を受けることを了承し、二〇〇〇万円を受け取ることについて両名の間で共謀を遂げた。そこで、被告人乙川が、平成五年一月下旬ころD支店長の意を受けたE副支店長との間で、同月二九日ころに現金二〇〇〇万円を被告人乙川の自宅へ届けさせることを打ち合わせた上、被告人甲野に対し、「ニ建設からの二〇〇〇万円についてどうしましょうか。」などと電話で指示を仰いだところ、同被告人は、無記名のワリノーにして持ってくるよう指示した。

被告人乙川は、同月二九日ころ、自宅においてE副支店長から二〇〇〇万円を受け取ると、被告人甲野の前記指示に従い、農林中央金庫仙台支店に出向いて、一年後を償還期限とする額面合計二〇六五万円のワリノーを購入し、同年二月七日ころ知事公舎に赴き、「これがニ建設からの分です。」と言って同被告人にワリノーを差し出したところ、同被告人はこれを受領した。

7 その後、被告人甲野は、平成五年七月になってF市長が収賄容疑で逮捕され、マスコミで自己の収賄疑惑が取りざたされるようになるや、直ちに被告人乙川に右ワリノーを返還した。その上で、ワリノーは受領後間もなく返還したと装うため、知人のGとの間で、同人が被告人乙川に返還せよと指示されて預かったが、渡すのを忘れたとする口裏合わせを行った。

二  そこで、被告人両名につき犯罪の成否を検討するに、右に認定した諸事実から、被告人甲野は、県職員からなされた報告や具体的工事名を挙げながらC副社長らが行ったトップ営業等を通じて、ニ建設がJVの一社として宮城県の大型プロジェクトの一つであるがんセンター病院本館建設工事を受注し、また、今後発注予定の公共工事の中でも群を抜いて大規模工事の一つであった陸上競技場建設工事等を受注しようと狙っているのを認識していたこと、被告人乙川からニ建設が本件金員を出すと聞いていったんは躊躇を見せながらも、その後ワリノーに換えて持参するよう自ら指示し、知事公舎において被告人乙川から直接ワリノーを受け取っていることなどの事実に加え、関係証拠によれば、被告人甲野については、親族や親しい知人から提供される一部の資金を除いてこれまで選挙資金はすべて後援会を通して賄い、自らは金に関与しないようにしていたこと、過去に一度も金銭提供のなかったニ建設から二〇〇〇万円もの大金を受領していること、営利企業であり宮城県から各種公共工事を受注しているゼネコンが単に県知事再選だけを願って右大金を供与するはずがないことは容易に認識できること、選挙が目前に迫っているにもかかわらず償還期限が一年後である割引債にして持参するよう指示していること、金員の授受を明らかにする領収証などの書類が一切作成されていないこと、F市長が収賄容疑で逮捕され、ゼネコン汚職疑惑の報道がなされるや、直ちにワリノーを返還した上、知人との間で受領後間もなく返還したとの口裏合わせを行っていることなどの諸事情が認められる。また被告人乙川についても、同甲野について指摘した事情のうち被告人乙川においても認識し得た諸事情に加えて、関係証拠によれば、同被告人は以前から仙台市長選挙に際してゼネコン各社から提供される多額の金員をF市長に取り次ぎ、併せてその希望する工事名を同市長に伝えるなどしていたものであるところ、本件においても、ニ建設ががんセンター病院本館建設工事を受注し、今後発注される国体関連施設の受注を目論んでいることを認識し、また一般的に企業が金を出すのは仕事が欲しいからであると十分分かった上で、後援会等を通すことなくニ建設から被告人甲野に直接二〇〇〇万円もの高額の金員が渡るよう取り計らっていることなどの諸事情が認められる。

これらの事情を総合して検討すると、本件二〇〇〇万円が賄賂であって、被告人甲野及び同乙川がその趣旨を明確に認識した上で受け取ったものであることは優に認められる。

三1  被告人甲野の弁護人は、同被告人は本件ワリノーの購入資金をニ建設が供与したとは知らなかったのであるから、仮にニ建設の意図が賄賂の提供にあったとしても、同被告人には収賄罪は成立しないと主張し、同被告人も公判廷においてこれにそった供述をする。

しかしながら、被告人乙川の公判廷における供述によれば、前記認定のとおり、平成四年一二月中旬ころ知事室を訪れた際にも、またその後平成五年二月七日ころ知事公舎にワリノーを届けた際にも、それがニ建設から供与されるものであることは明言したこと、また、そのいずれかの機会などに被告人甲野が、「ニ建設さんによろしくね。」と言ったことなどが認められるのである。ニ建設が被告人甲野に対して二〇〇〇万円を供与する趣旨に徴しても、被告人乙川がニ建設からのものであることを明確に告げなければその目的は果たせないこととなるし、また、同被告人において二〇〇〇万円の出所を殊更秘匿しなければならない理由も必要も全く認められないことに照らしても、同被告人の右供述の信用性は極めて高いということができる。他方、被告人甲野は公判廷において、この点につき、「乙川さん自身の金も入っていると思ったし、親しい人で企業経営しているような人たちから集めてきてくれたのかなと思った。」などと供述するが、被告人乙川の供述にはおよそこれを裏付けるような部分がなく、被告人甲野が適当な推測をしたということにならざるを得ないが、このような大金を受領しておきながら右のごとき推測をするだけでそれ以上に金の出所を追究しないというのも、また、F市長が収賄容疑で逮捕されたことを耳にしてあわててワリノーを返還したというのも甚だ不自然な行動というほかない。したがって、弁護人の主張は採用できない。

2  次に、被告人甲野の弁護人は、Iとの口裏合わせは、同人が提案したところに同被告人が乗ってしまったものであって、これと逆の状況を述べるIの供述調書の内容は信用できず、口裏合わせの事実をもって同被告人に賄賂性の認識があったことの証拠とすることはできないと主張し、同被告人も公判廷においてこれにそう事実を供述する。

しかし、Iの平成五年一一月四日付け検面調書(甲九七号証)における供述内容は、口裏合わせの経緯が極めて具体的かつ詳細に述べられているばかりか、相談を持ちかけ、暗にIの方から提案するよう示唆したのは被告人甲野であるが、実際に言葉に出して提案をしたのは自分であるとするなど、その供述は迫真性を備えていること、さらに関係証拠によれば、Iは同被告人の町長時代からの友人であって当初の知事選挙から同被告人を応援してきた者であることが認められることなどにも照らすと、その供述の信用性は極めて高いと認められる。したがって、この点を同被告人の賄賂性の認識を判定するための一資料として考慮することもやむを得ないところである。

3  被告人乙川の弁護人は、同被告人はニ建設が今後とも宮城県発注の工事を受注したいために供与するものであるということを概括的に認識していたにすぎず、本件金員と判示認定の個別具体的な工事とを結びつけて考えていたわけではないと主張し、同被告人も公判廷においてこれにそう事実を供述している。

この点に関する同被告人の検面調書には、同被告人がこれら具体的工事についての謝礼及び今後の便宜な取り計らいを依頼する趣旨で本件に関与した旨の記載があるのは事実である。しかし、同被告人がニ建設が受注し又は今後受注したいとねらっている工事がどのようなものであるかを知った経緯、理由については十分に触れられていないため、結論だけが唐突に示されている感があり、右検面調書には必ずしも信用し難い面があるといわねばならない。

もっとも、被告人は公判廷において、「経済の活性化を考えていた甲野知事の政策であれば、公共工事も増え、ニ建設などの業者にはビジネスチャンスが広がるので、業者はそういう営業的な意味があって金を出すのだと思う。営業的な意味がなければ金を出すはずがない。自分なら知事に喜んでもらおうと思って金を出すのであるから、ニ建設もそうだったと思う。」と供述した上で、さらに、「ニ建設が金を出すとの話を知事に取り次いだときには、同社ががんセンターを受注したことは既に知っていたし、また国体がくるので陸上競技場などの施設についてお願いしたいという気持ちは十分にあったと思う。」旨供述しているのである。

そうすると、同被告人が本件に関与した際、ニ建設が判示認定の各工事などについて、これを受注したことの謝礼及び今後の便宜な取り計らいを依頼するとの趣旨で提供するものであることを知った上で被告人甲野に二〇〇〇万円提供の話を取り次いだものであることは十分に認められるといってよい。

四  検察官の主張に対する判断

検察官は、本件において被告人甲野が次のような便宜供与をしたと主張し、弁護人はこれらの事実を強く否定し、争っているので、以下この点に関する当裁判所の判断を示す。

1 検察官は、被告人甲野が、がんセンター病院の前身である成人病センターを施工したいわゆる元施工業者のニ建設をがんセンター病院の受注本命業者とする方針で臨み、がんセンター建設室長らからがんセンター病院建設工事の概要について説明を受けた際、出席者の一部からがんセンター病院の前身である成人病センターに雨漏りが生じているとのニ建設批判の発言が出たのに対し、ニ建設を擁護する発言をしたと主張する。

右主張にそう証拠として、「がんセンター建設工事の予備指名前に、P副知事らと一緒に保健環境部長らから説明を受けた際、P副知事から、成人病センターは雨漏りがひどいらしい、ニが元施工らしいが業者の監督はしっかりやってくれとニを非難する意見が出た。しかし、ニ建設は私のところにも指名受注願に来ていたし、昔はどこの企業も技術は低かったのが現在ではそれも向上しており、ニ建設の技術も十分信頼できるものだと思っていたので、私は、今はどこでも技術はよくなっていると言った。」旨の記載がある被告人甲野の平成五年一〇月一六日付け検面調書(乙五五号証)を挙げることができる。しかし、この点に関連するその他の証拠を検討してみると、Oが公判廷において、「県庁の庁議室において、伊田保健環境部長だと思うが、P副知事との会話として、成人病センターや保健所など昭和三〇年か三三年ころに造った建物の出来がよくないとか、雨漏りがするとか言っていたように思う。その場に甲野知事がいたかどうかわからないが、指名委員会の後の話だとすればいないはずである。いずれにしても自分に関係のない部の話なので、どういう趣旨で出た話かわからない。」旨の証言をしており、千田の平成五年一〇月一二日付け検面調書(県知事・ニ事件甲八号証)にも、「いつのことであったか、誰から出たのか、具体的にどのような話であったのか、注意して聞いていたわけではなかったのではっきりとした記憶はないが、多分副知事あたりから成人病センターの雨漏りの話が出たような記憶がある。」とある。これら各証拠に徴すると、いつの機会かに幹部職員の間で成人病センターの雨漏りのことが話題になったことがあることは認められるものの、いつ、いかなる場所において、どのような機会に、どういった趣旨で発言されたものであるのかが極めてあいまいであり、かつ相互にかなりの齟齬がみられる上、ニ建設を非難する発言に対して被告人甲野がその場でニ建設を擁護する言葉を返したと供述する者は同被告人自身が供述する以外にはいない状況にある。すなわち、関係証拠を精査しても、雨漏り発言があったのに対し、同被告人がその擁護に回ったことで同被告人がニ建設に肩入れしていると受け止めた者はこれを見いだすことができないのである。したがって、同被告人の前記検面調書があるからといって、直ちに同被告人が知事就任直後からがんセンター病院についてニ建設を本命とする方針をとり、そのためニ建設を非難する発言に対しては同社を擁護する立場に回ったものと認定するにはなお疑問が残るというべきである。

2 検察官は、P副知事から、がんセンター病院建設工事をチに受注させたいとの要請が、ある有力者から来ているとの報告を受けた際、被告人甲野が、「ニ建設をはずすわけにはいかないだろう。両方うまくいく方法を考えてくれ。」と指示したため、Pから同様の指示を受けたO土木部長が、ニ建設とチの両社でJVを構成できるような指名方法を採用した上、あらかじめニ建設に受注させる旨の意向を伝え、その結果、両社を含むJVが落札、受注したと主張する。

(一) 被告人甲野が、「ニ建設をはずすわけにはいかないだろう。両方うまくいく方法を考えてくれ。」とPに指示したとする点について

検察官の主張を裏付ける証拠としては、同被告人の平成五年一〇月一六日付け検面調書(乙五五号証)を挙げることができる。その要旨は、「ニ建設は、成人病センターの元施工者であり、業者内の談合ルールに元施工優先受注の原則があるらしく、私の所にもがんセンターの受注をねらってこの点を強くアピールする営業を行ってきていた。入札まで数か月に迫った平成二年の夏ころ、P副知事が、ある国会議員からがんセンターをチに受注させてやってほしいとの要請が来ていると相談にきたので、チはゼネコンでもトップクラスの企業であり、指名から外すこともないと考えたので、土木部の担当者に話しておいてくれと答えた。また、予備指名について、P副知事が、地元の有力な国会議員がチを要請してきているが、ニとチをどうしようかと相談にやってきた。ニ建設は元施工業者でもあり、営業も頑張っているので、ニ建設にも工事を取らせてやった方がいいと考え、元施工のニをはずすわけにはいかないだろうと言った。通常の超大手と準大手のゼネコングループに分ける発注の仕方では元施工業者が有利になるし、かといってチを受注させると元施工のルールを破ることになると思ったのか、P副知事は困った様子となったので、私も困り、両方うまくいくようないい方法を土木と相談して考えてくれないかと言うと、P副知事もわかりましたと返事をした。」というものである。

これによると、P副知事からは二回の相談があったことになるが、被告人甲野は一回目の相談ではチに配慮を示したにもかかわらず、二回目の相談では両方うまくいく方法を考えるよう指示したことになっており、被告人甲野の意図がニ擁護で一貫していたものとは認められないこととなる。また、関係証拠によれば、二回目にPが相談に来たと思われる平成二年秋ころには、既にニ建設とチがJVを組み得る予備指名原案が作成されており、この時期になって今更のように被告人甲野とPが両方うまくいく方法を相談し、土木部に指示したというのは客観的にありえないことといわねばならない。次の(三)の項で検討するように、本件のJV構成案は千田、斎藤らがんセンター建設室のメンバーが発案したものであると認められることも考え併せると、被告人甲野の前記検面調書の記載は信用できないというほかない。

(二) O土木部長がPから指示を受けたとする点について

検察官の主張を裏付ける証拠としては、被告人甲野の平成五年一〇月一六日付け検面調書(乙五五号証)に、「P副知事がO土木部長と相談したらしく、通常は余りやらないJV発注方法である超大手と準大手に分けない方法をとった。元施工のニ建設と国会議員から要請のあったチが変則的なJVを組み、そのJVが工事を受注した。」とある点を挙げることができる。

しかし、右供述中、PとOが相談したとの点は単なる推測であり、その根拠は何ら示されていない上、関係証拠によれば、本件のようなJVの方式は現に宮城県総合庁舎建築工事のときなどにも採用されているように決して変則的な方式とまではいえないのであって、右供述の信用性は疑わしい。被告人甲野の右検面調書を除けば、ほかに証拠もなく、O土木部長がPから指示を受けたとする検察官の主張は採用できない。

(三) Oが、ニ建設とチの両社がJVを構成できるような指名方法を採用したとする点について

この点につき、ガンセンター建設室室長である千田は公判廷において、「選定業者の原案作りを担当したのは斎藤栄希技術補佐であるが、大手をランク的にグループ分けするのが難しい、県庁舎のような例がとれないかなどと相談を受け、話合いをした結果、中央二社、地元三社に分けて、その中で業者が自由に組むという方式が自分のところの手間も省けるし、業者としても互いに気があった者が組むことができるということから、がんセンター建設室として例規を参照した上、右グループ分けによる発注方式を決定した。業者の選定は斎藤に任せたが、念のため例規集に反しないかどうか、土木部管理課の建設業係に確認に行くように指示し、問題ないという報告を受けた。そして、原案ができてから、専門である土木部にチェックしてもらうため、私と斎藤の二人でO土木部長に相談に行った。その後の斎藤の話では、Oが少し業者の入替えを指示してきたものの大勢に影響はないとのことであった。」と証言した。そして、斎藤も公判廷においてこれと同旨の証言をしている。

これに対して、千田の平成五年一〇月一二日付け検面調書(県知事・ニ事件甲八号証)によれば、「例規を見たところ、斎藤補佐や私が考えていたような詳細なグループ分けをしないでもすませる別なやり方もあるように読めたため、Oのもとへ相談に行ったところ、Oから、JVを構成する業者のJV構成方法としては各工事ごとに選定した中央の業者の中から中央の業者と地元の業者とにだけ分けて数を決め、あとはどのような構成でJVを組むかは業者サイドに任せる方法もあるとの意向を示され、こんなやり方もあるのかなあ、余り聞いたことのないやり方だけど、部長は経験が豊富なだけあって、変わったやり方を思い付くなあという思いがしました。」との記載があり、JVの構成方法を決めたのはO土木部長であって、斎藤に対しても右Oの意向を伝えたとされている。

しかし、右検面調書によると、グループ分けの点について、千田は、詳細なグループ分けをしないでもすませる別なやり方も念頭に入れながら相談に行っているにも関わらず、Oの提案を聞いて、変わったやり方を思い付くなあという感想を抱いたとされており、極めて不自然である上、千田自身の前記公判証言やこれと合致する斎藤証言とも対比すると、その信用性には疑問が残る。

したがって、がんセンター病院工事のJVの構成方法に関する原案は、がんセンター建設室が独自に作成したものと考えられるのであって、被告人甲野の意向を受けたOがニ建設とチの両社がJVを構成できるような指名方法を採用し、指示したとする検察官の主張は採用できない。

(四) Oがあらかじめニ建設に受注させる旨の意向を伝えたとする点について

この点に関して、Eは公判廷において、「Oのところへは二回行ったことがある。一回目は、雨漏りしていて欠陥工事の業者だという噂が立っているということを言われた。二回目は予備指名の前だったが、がんセンター病院工事のことでOから「頑張れな。」と言われて、指名から外れることはないという気がした。雨漏りの話が出た時よりは事態が好転していると感じた。」と証言する。

しかし、指名から外れることはないと感じたというのは、結果からみたEの個人的感想という面があるのも否定できず、関係証拠によれば、O自身がEに対して右発言をしたことを具体的に記憶していないこと、ニ建設ではその後も他の業者と指名を争い、第三者の仲介があってようやく調整がついたことが認められることなどに徴しても、仮に右のような発言がなされたとしても、その趣旨がOにおいてニ建設に受注させる意図のもとにあらかじめその意向を伝えるものであったとは到底解することができない。

3 検察官は、被告人甲野がO土木部長に宮城国体関連施設である総合体育館の設計をニ建設に委託するように指示した結果、ニ建設が右総合体育館の設計を随意契約によって委託され、陸上競技場建設工事の受注に向けて一層優位な立場に立ったと主張する。

(一) 被告人甲野が、O土木部長に総合体育館の設計をニ建設に委託するように指示したとする点について

この点について、Oの平成五年一〇月一三日付け検面調書(甲一四二号証)には、「知事室を訪ねたときに知事から総合体育館の設計は優秀賞を取ったニ建設にやらせたらどうだと言われ、わかりましたと返事したことがあったが、知事も私と同じ考えだと思い、面倒な指示を受けた感じではなかった。その後、私は、千葉課長が私のところへ来たとき、千葉に対し、総合体育館の設計をニ建設に委託したらどうだなどと言った。」との記載がある。しかし、Oは公判廷において、知事から総合体育館の設計をニ建設にやらせたらどうだなどと言われたことはない旨証言しており、被告人甲野は捜査・公判を通じてOに指示したとは供述していないことなどにも照らすと、前記Oの検面調書の信用性は疑わしいといわざるを得ない。もっとも、千葉の検面調書によれば、千葉自身が直接被告人甲野から、「入賞者に設計をやらせたらどうか。」と声をかけられたことが認められるが、右発言は入賞者について広く言及したものであって、そのうち特にニ建設に限定してしかも総合体育館の設計を担当させよとまでの指示とみることは到底できないし、また千葉は偶然出会った際の会話であり、横に秘書もいるような状況であったとしているところ、知事が部下に対する重要な指示を行う場面としてはこのような場は不自然でもあり、被告人甲野がニ建設に総合体育館の設計を担当させようとの意図のもとに右発言をしたものとみることはできない。したがって、検察官の主張は採用できない。

(二) ニ建設が総合体育館の設計を随意契約によって委託されたことにより、陸上競技場建設工事の受注に向けて一層優位な立場に立ったとする点について

この点につき、なるほどOの平成五年一〇月一三日付け検面調書(甲一四二号証)等によれば、総合体育館の設計を担当したことで陸上競技場建設工事の受注についてニ建設が優位に立ったことが認められるのであるが、関係証拠によれば、国体関連施設である陸上競技場、総合体育館、総合プールはどれも一様に大規模工事であり、ニ建設が特に陸上競技場のみを受注目標に掲げて営業を行っていたというわけではないことに照らすと、被告人甲野がニ建設に陸上競技場を受注させようとの意図のもとにあらかじめ総合体育館の設計を委託するという手の込んだ工作を行う理由も必要性もおよそ認められないのであって、ニ建設が総合体育館の設計を委託されたことから陸上競技場について一層優位な立場に立ったのはあくまで結果的なものであるとみるほかない。

第三  市長事件について

一  ニ建設と被告人乙川との間の現金授受の時期

被告人乙川に対する平成五年一一月七日付け起訴状記載の公訴事実では、金銭授受の日時が平成四年一一月二五日ころとされているが、検察官は、市長事件第一〇回公判において平成四年一一月二五日ころとは、同月一八日から同月二七日までの間(以下「本件期間」という。)である旨釈明した。これに対し、弁護人は、被告人乙川が、ニ建設東北支店支店長であったDから現金二〇〇〇万円を受け取ったこと自体は認めるものの、それは、本件期間中ではなく、それよりも数か月前のことであるから、公訴事実について証明がなく、被告人乙川は無罪であると主張するので、以下、金銭授受の日時について検討する。

1(一) まず、金銭の授受に関し、関係証拠により次の事実が認められる。

被告人乙川を通じてF仙台市長に対して二〇〇〇万円を供与することを決めたD支店長は、同支店管理部長であったJに対し、現金二〇〇〇万円を準備するように指示し、Jはこれを受けて同支店経理室長であったKに対して右現金の準備を指示した。Kは、同支店経理課長のLに指示して現金二〇〇〇万円を準備し、Jから指示された日に右現金をD支店長に渡した。D支店長は、Kから受け取った現金二〇〇〇万円を乙川木材株式会社の事務所に赴いて被告人乙川に手渡し、同被告人は、現金を受領した後、その旨をF市長に連絡し、その数日ないし一〇日後にこれをF市長に渡した。

(二) 次に、右現金の準備等に関与したJとKの供述を検討すると、次のとおりである。

(1) まず、Jは次のように供述している。

平成四年九月中に、D支店長から現金二〇〇〇万円を一一月中に準備するように言われたが、同年九月末に税務調査が予定されていたので、その直前に二〇〇〇万円もの使途不明金を計上すると係官に追及されると考え、同年一〇月に入ってから、二〇〇〇万円を一一月中に用意するようKに指示した。その際、伝票は数通に分けること、決算修正伝票の建築と土木の割合は建築六対土木四とすることなどを具体的に指示したところ、Kは一〇枚くらいの出納伝票を用意した。一一月一〇日過ぎで二〇日以前にKから現金二〇〇〇万円が準備できたとの報告を受け、現金二〇〇〇万円をD支店長のもとに持参するようにKに命じた。

(2) また、Kは次のとおり供述している。

平成四年一〇月初旬ころ、Jから現金二〇〇〇万円を一一月中旬ころまでに用意するよう、また、決算修正伝票の建築と土木の割合は六対四にするように指示された。これを受けてLに二〇〇〇万円用意するよう指示したところ、Lが数通の伝票を用意してきたので、その合計が二〇〇〇万円であり、建築と土木の割合が六対四になっていることを確認して建築部長、土木部長の印をもらい、伝票をLに戻して予定どおり実行するよう指示した。一一月中旬ころ、Lから二〇〇〇万円の準備ができた旨の報告を受け、Jの指示に従って、一一月中旬ころから下旬ころに支店長室でD支店長に二〇〇〇万円を渡した。

(3) このように、現金の準備を担当したJとKの各供述内容を検討すると、Jが二〇〇〇万円の準備を指示した時期、その捻出方法、捻出期限、準備ができた時期等について、その内容が基本的に一致していることに加え、各供述の内容は具体的かつ詳細であり、特段不自然、不合理な点もない。また、Jの供述において、Kに対する指示を平成四年一〇月になってから行った理由は、税務調査が同年九月に行われるためであると説明されており、それ自体は合理的なものであるといえる(この点に対する弁護人の批判については、後に述べる。)。加えて、第一三三下期損金不算入経費調書には、平成四年一〇月一二日から翌一一月一八日までに一〇回にわたり合計二〇〇〇万円の支出が認められ、それぞれの建築と土木の割合がJらの供述どおり六対四になっているのであって、J及びKの供述どおりの経理処理が行われていたことが認められる。

(三) また、自ら現金二〇〇〇万円を被告人乙川のもとに届けたD支店長も、その具体的な日時は特定できないとしながらも、平成四年一一月二五日ころに被告人乙川に渡したとの点は終始一貫して供述しており、右供述内容は、前記J及びKの供述内容と符合している。

(四) さらに、被告人乙川は、現金二〇〇〇万円はD支店長から受け取ってから数日ないし一〇日後にF市長に渡したと供述しており、その限りでは、捜査段階から公判供述に至るまで一貫している。そして、Fも、自己の公判における意見陳述において、リ建設から現金を受け取った時期については、平成四年の春か秋かはっきりしないと述べているのに対し、ニ建設から被告人乙川を通じて受領した本件二〇〇〇万円については、その趣旨は選挙資金であるとしながら、同年一二月ころ受け取ったことを認めている(なお、Fは、公判廷において、本件の二〇〇〇万円の授受時期についてそのように述べたのは、はっきりした記憶はなかったが、捜査段階において検察官から乙川がそう言っていると聞かされ、乙川はうそをつく人ではないので、一二月ころ受け取ったものと思っていた旨述べているが、ニ建設からの二〇〇〇万円の供与につき右陳述を行った当時、被告人乙川とFとは共同被告人であったのであり、当該公判廷において、Fは、被告人乙川が授受時期について捜査官から聞いたという時期とは異なる陳述をするのを聞いていたにもかかわらず、特段捜査段階の供述を訂正していないことなどを考慮すると、右弁解を信用することはできない。)。

(五) 以上の証拠関係によれば、被告人乙川が現金二〇〇〇万円を受け取ったのは、検察官が主張するとおり、平成四年一一月一八日から同月二七日までの間であったと認めるのが相当である。

2 もっとも、被告人乙川の弁護人は、種々理由を挙げて右認定を争うので、以下順次検討する。

(一) Fの手帳の記載について

弁護人は、Fが使用していた手帳(市長事件甲四〇号証。平成七年押第八四六号の6。以下「F手帳」という。)には、平成四年の仙台市長選挙に際し、Fに供与する趣旨で被告人乙川に現金を持参した一三社の名前が記載されているところ、ニ建設は、平成四年一〇月七日に同被告人に現金を手渡したホより前の位置に記載されているから、Dから同被告人への現金の交付は、同日より前であったはずだと主張する。

そこで検討するに、確かに、F手帳の当該ページには、六行目に「戸田、ニ、安藤、大豊、五洋」、七行目に「ホ、不動、地崎、岡、東亜」、八行目に「佐田、菱中」と記載されており、ニ建設はホよりも一行上に書かれている。そして、関係証拠によれば、ホが被告人乙川に現金を交付したのは、平成四年一〇月七日であること、F手帳の記載は同被告人が記載したメモを手帳に書き写したものであることが認められる。

しかし、同被告人は、各社から現金を受け取るなどした際に、日付、会社名、金額を順に記載したメモから会社名だけを別に書き写したメモを作り、これをFに示したことが認められるから、その間に誤って転記された可能性が否定できないだけでなく、そもそも捜査段階において同被告人が供述しているように、平成四年六月中旬から下旬ころに、Dからニ建設としてF市長に渡す額を二〇〇〇万円と決めた旨の連絡があった際、右二〇〇〇万円は確実に渡されるものと考えた同被告人が、その時点で会社名、金額等を原メモに記入したことも十分考えられるから、F手帳に右のような記載があるからといって、それだけで現金交付の日にちに関する前記認定が左右されるわけではない。

これに対し、被告人乙川の弁護人は、現実に現金を受領したときにメモに書き込むのが他人の金を預かってそれを報告しなければならない人間の心理にそっているなどと主張して反論するが、関係証拠によれば、市長選挙に際して行われた現金の供与は、仙台市発注の公共工事の受注をねらったゼネコン等各社が、受注業者の決定につき極めて大きな権限を有していたFの歓心を買うために行ったものと認められるから、いったん、現金の供与を約束しておきながら、後にその約束を反故にするなどということは通常考えられず、したがって、被告人乙川が、Dから金額につき連絡を受けた時点あるいはそれから遠くない時点でニ建設の名前をメモに記載することは十分あり得ることというべきである。

したがって、F手帳のメモに関する弁護人の主張は採用できない。

(二) 次に、被告人乙川の弁護人は、当時Dが使用していた車両(以下「支店長車」という。)の運転日誌の記載をもとにDの当時の日程を推測し、被告人乙川の当時の日程と対比した上で、本件期間中にDが被告人乙川と会って現金を交付することは不可能であったと主張する。

そこで、弁護人が右主張の前提とする運転日誌の記載について検討すると、その信頼性に関して、以下の各事実を認めることができる。

(1) ニ建設東北支店において、支店用車両につき運転日誌が記載されるのは、運転手の勤務状態を把握、管理したり、あるいは運転手の時間外勤務手当の算出根拠とするためではなく、支店用車両に係る費用を各部署に割り付ける基準とするためであった。そして、支店長車の場合には、原則として支店長が専ら使用し、その場合にはいちいち乗車伝票の提出を求めていなかったので、運転日誌の正確性を事後的に乗車伝票と照合して確認するシステムは存在しなかった。これらの点からすると、支店長車の運転手にとって、運転日誌の記載は必ずしも重要性が高いものではなく、その正確性を確保する必要性も他の支店用車両の場合に比較して低かったと推測することができる。

(2) 実際、支店長車の運転手である吉田良次も、以下のとおり、運転日誌の記載が厳密に行われていたわけではないこと、記載内容と実態との間に相当程度の食い違いが生じ得ることを自認している。

ア 運転日誌に記入するために、車内において時計やトリップメーターを確認したり、運行状況をメモに取ったりはしなかった。したがって、運転日誌に記入する場合、運転時間については自己の記憶に従って記入し、走行粁数については、走行したことがある場所の場合には経験に基づいておおよその距離を記入し、走行したことがない場所の場合には道路地図等で調べたおおよその距離を記入していた。

イ 運転日誌への記入はまとめて行う場合があり、時によっては翌々日に持ち越すこともあった。

ウ 運転日誌中の「待・駐」欄の記載は、一回の運行について待機が複数回あったときでも各運行ごとにその時間を通算して記載されていたが、個々の待機時間を算入するかどうかについては、明確な基準に基づいて処理していたわけではなかった。

エ 「出発メーター数」欄には、支店長車のメーターに表れた数値を記載するのではなく、前日の「終着メーター数」欄に記載された数値をそのまま転記するのを原則としていた。その結果、支店長車のメーターの数値と運転日誌上の数値が大きく異なってくると、支店長車のメーター数に合わせて出発メーター数を記入したため、運転日誌上の前日の「終着メーター数」欄の数値と翌日の「出発メーター数」欄の数値とが断絶する場合があった。

オ なお、吉田は、運転日誌上の「終着メーター数」欄の数値及び「出発メーター数」欄の数値の食い違いについて具体的に質問をされた際、その食い違いが「一〇三八キロメートル」あるいは「一〇〇キロメートル」にも及ぶような場合についても、誤って記入した結果である可能性があることを認めている(弁一一〇号証)。したがって、吉田の意識の上では、相当大きな誤差についても、自分が誤って記入し得ることを想定していると認められる。

(3) そして、運転日誌の記載内容を検討すると、右のような記入態度等ス映してか、本件期間中だけでも、次のとおりの事実とは異なった記載が認められる。

ア 公判廷における田邊幸夫の証言その他の関係証拠によれば、Dは、平成四年一一月二〇日、山形駅ビル新築工事の上棟式に出席したが、式後、他の出席者と共に山形市内のそば屋で飲食してから、支店長車で仙台市内のニ建設東北支店に帰ったこと、右そば屋と東北支店間の所要時間は、自動車で直行した場合、通常一時間強であったことが認められる。そして、右田邊の証言によれば、散会したのは午後三時過ぎころであり、Dは、仙台へ向かう途中、午後四時過ぎ発の新幹線(市長事件弁三四号証によれば、午後四時二一分発の東京行きと思われる。)に乗車予定の設計会社の社長を支店長車で同駅の新幹線乗車口まで送ったとされている。そば屋での会食は、当時山形駅ビル等建設工事共同企業体の作業所長の地位にあった田邊にとっては、相当していた工事の上棟式という記念すべき日の出来事であったこと(田邊自身、上棟式等が工事業者として一番関心のあることであるので、そのときのことは良く記憶している旨述べている。)、会食は田邊が本来所属するニ建設東北支店の責任者であるDの出席の上でのものであったこと、出席者の中で田邊が会食の取り仕切りを行っていたことなどからすると、当日のそば屋での出来事は田邊の印象に強く残っていたと推測される。しかも、田邊はDと前記社長が昔なじみで、東京勤務時代の話を技術的なことも含めて話し出したため座が盛り上ったこと、右社長が四時過ぎの電車で東京に帰るというのでそれに間に合うぎりぎりまで店にいたことなど、散会が午後三時過ぎになった根拠を具体的に挙げて供述している上に、その内容は当時の記憶がなければ到底供述できないものであること、そば屋での会食の主たる意味が東京からわざわざ来た右社長の接待であり(弁一〇九号証)、田邊は同社長の都合等を最も注意していたと思われることなどを考慮すると、その供述の信用性は高いといえる。そうすると、Dが東北支店に帰着したのは、最も早い場合でも同日の午後四時を相当程度過ぎた時間であったと認められるが、運転日誌には支店長車が車庫に入ったのは午後三時三〇分である旨の記載がなされている。

もっとも、田邊は、弁護人も主張するように、二年以上前の事実を証言しているのであるから、その供述の信用性が基本的には高いとしても、散会時間等具体的な時刻については若干の記憶違い等をしている可能性がないわけではない。しかし、仮にそうだとしても、右に述べたところからすれば、設計会社社長の新幹線の時間に合わせてぎりぎりまでそば屋にいて散会したとの点は十分信用できるところ、そば屋での飲食の開始時刻が午後零時半過ぎころであったこと等によれば、同社長が乗車した新幹線は、先ほどのものより一つ前の同駅発一五時二二分発のものより前ということは考えられない。そうすると、右そば屋から同駅までの距離は数キロであるから、散会したのはせいぜい午後三時前後と解するのが自然である。したがって、このように考えた場合であっても、ニ建設東北支店に到着するのは午後四時ころになるものと考えるほかなく(弁一〇八号証によれば、当日、Dらと共に右そば屋での会食に参加して、散会後東北支店に直行した上遠野教典が利用した支店用車両の運転日誌には、運転時間が午後四時までである旨の記載がある。)、やはり、運転日誌の記載とは大きく異なることになる。

イ 運転日誌には、同月二七日の午後一七時二〇分から一八時二〇分までの間、支店長車が走行していた旨の記載があるが、その間の走行距離がわずか九キロメートルであることを考慮すると、「運転時間」ないしは「走行粁数」欄の誤記か、「待・駐」欄の記載漏れがあったと推測される。

ウ 吉田にとって、午前八時四五分から午後五時三〇分以外の時間、及び午後零時から午後一時までの時間における勤務は時間外勤務とされていたが、運転日誌の時間外勤務欄の記載を運転時間欄の記載等と対比しつつ検討すると、本件期間中の運転日誌に記載のある九日間のうち八日間については、計算上五分ないし五〇分の誤差があることになる(さらに、運転日誌の記載上は午後零時から午後一時の間勤務に就いているのか否か明らかでないものがあるが、この間勤務していたと仮定すると五〇分を超える誤差も生じることとなる。)。

(4) 以上の各事実が認められるのであり、これらにかんがみると運転日誌の記載が正確なものであったと解することはできず、したがって、その記載を前提にしてDの当時の行動を完全に把握することは困難というべきである。

(5) ところで、Dは、検察官に対する供述調書の中で、被告人乙川に現金を届けたのは午後を少し回った時間帯である、一一月二五日の午後一時三〇分ころに支店を出発して山形出張に出向いた途中に乙川木材の事務所に立ち寄って現金を渡したのではないかと思う、当日の午前中にK経理室長から二〇〇〇万円の在中する書類袋を受領したが、その際、「乙川社長との約束は午後だから、午後になったらできるだけ早く届けるよ。僕も大金を長い時間持っているのは嫌だから。」と話した覚えがあり、二〇〇〇万円入りの書類袋を何かの紙袋に入れた上で持参して、支店長車で乙川木材の事務所へ行った旨供述している。しかし、他方でDは、右供述調書においても、一一月二五日に山形出張に出向いた途中に寄ったことが間違いないとまでは言えない、自信を持って言えるのは一一月二五日かこれと前後する時期に乙川木材の事務所に行って現金を届けたことである旨述べているほか、公判廷においても、右供述調書に係る取調べの当時、明確な記憶に基づいて供述したのではなく、検察官から運転日誌や行事予定表等を見せられ、そこから想定できる内容を交えて供述したこと、乙川木材に持っていった時間帯についての供述も、これらによって想像できたので午後の早い時間帯である旨供述したこと、覚えているのは朝が早い時間であったとかあるいは真っ暗というような時間ではなかったことくらいであると述べている。そして、検察官によって取り調べられたのが乙川木材に現金二〇〇〇万円を持参したとされる日から既に一年近く経過していたころであること、平成四年一一月当時、Dは支店の責任者として出張等に明け暮れて非常に慌ただしい生活を送っていたこと、現金を届けた時間帯については捜査及び公判廷における供述を通じて記憶が必ずしも明確でない旨述べていることなどを併せて考慮すると、D供述から推認されるところのDが現金を持参した日時は、「平成四年一一月二五日前後の、必ずしも午後の早い時間に限られない日中」程度に考えておくのがよいと思われる。

(6) そこで、以上を前提に、本件期間中、Dが被告人乙川に会うことができた可能性のある日を検討すると、運転日誌の運転時間欄等には記載がないものの、一一月一九日、及び同月二七日の各日中については、その可能性があったというべきであり、また、同月二五日についても、被告人乙川が外出する前の午前中の時間帯については同様に解することができる。そうである以上、弁護人の前記主張はこれを採用することはできないものというほかない。

(三)(1) さらに、被告人乙川の弁護人は、Dが同被告人に渡した二〇〇〇万円の原資に関し、ニ建設関係者の供述には客観的な証拠に反する不合理な点があり、信用することができないと主張する。すなわち、

ア K、J、Lの供述によれば、Fに供与された二〇〇〇万円の原資は、平成四年一〇月一二日から同年一一月一八日にかけて交際費名目の一〇枚の出納伝票を用いて引き出され、それが建築部と土木部の各工事原価に六対四の割合で割り付けられたのに対し、被告人甲野に供与された二〇〇〇万円の原資は、平成五年一月一九日から同月二六日にかけて六枚の出納伝票で引き出され、それが建築部と土木部の各工事原価に五・五対四・五の割合で割り付けられたとされているが、同じ時期(第一三三期下期)に使途不明金として捻出しながら、捻出にかかった期間も使用した伝票の枚数も建築と土木の負担割合も異なっているのはおかしい。

イ Kは、Fに対して供与した二〇〇〇万円を捻出した際には、Lが用意した伝票をいったん預かり、建築の決算修正伝票については建築部長の印をもらい、土木の決算修正伝票については土木部長の印をもらった上、Lに渡したと供述している。しかし、〈1〉被告人甲野に対して供与された二〇〇〇万円捻出の際に用いられたという出納伝票には、起票者の欄にL以外の複数の者の印が押されている。これは、Lが起票したとする右供述に反するし、使途不明金を捻出する際にL以外の複数の者を関与させている点でも不自然である。〈2〉また、右出納伝票の形式は、Fに対する二〇〇〇万円を捻出した際に使用した出納伝票の形式と同様と推測されるところ、建築部長や土木部長の印を押す欄がないから、Fに関して用いた出納伝票にもその欄はなかったと考えるのが自然であり、そうすると、両部長の印をもらったという供述は信用性が乏しい。〈3〉さらに、そもそもFに関してと同様使途不明金の捻出に用いられた各出納伝票には明らかに両部長の捺印はないのであるから、この点からしても右供述はおかしいというのである。

(2)ア しかしながら、関係証拠によれば、原資の捻出にかかった期間及び使用した伝票の枚数が異なるのは次の理由によると認められる。

Kは、Fに対する二〇〇〇万円については、他の使途不明金の案件で用いる一枚当たりの金額と同様の金額にして目立たせないようにしようと考え、一〇〇万円、二〇〇万円、三〇〇万円といった金額の伝票を用いることにしたので、結果的に枚数が多くなり、ひいては捻出にかかる期間も長くなった。これに対し、被告人甲野に供与する二〇〇〇万円については、平成五年一月中くらいまでに作るようにとの指示を平成四年一二月下旬ころまでには受けていたものの、年末で経理担当部署が多忙であったため伝票を起こすのは年明けになってしまい、時間の余裕がなく、できるだけ少ない枚数で起票せざるを得なくなった。Kは赴任当時、上司から使途不明金は一件が五〇〇万円を超える金額で作ることはできるだけしないようにと指示されていたため、一枚の金額が五〇〇万円を超えない範囲で作らせたが、概ね一枚当たりの金額が多くなると共に捻出期間は短くなった(一月一九日が一〇〇万円、同月二〇日が三〇〇万円にとどまっているのは、建築と土木の負担割合を整えるためだと推測できる。)。

イ また、建築と土木の負担割合が異なる点については、以下の理由に基づくものと考えられる。

ニ建設東北支店では、使途不明金を捻出する場合、一般工事原価ともいうべき特別勘定で処理し、支店全体の建築・土木の各工事原価に計上することになっていた。その場合、個々の使途不明金における建築と土木の負担割合が重要なのではなく、各期における全体としての負担割合がどうなっているかが重要なはずであるから、個々の使途不明金ごとにその負担割合が一定である必要はないはずである。実際に、各期における不算入経費の合計額を建築と土木とでどのように負担しているかをみると、第一三三上期においては、約〇・五八五二対約〇・四一四八、同下期においては、〇・五八四対〇・四一六であって、おおむね〇・五八対〇・四二程度の比率になっている。しかも、個々の伝票の金額は、一〇〇万円とか二〇〇万円とかの端数のない金額であるのが普通であるから、全体としての負担割合を右のような数値にするために、個々の支出ごとに負担割合を一定にすることは実際上困難である。この点からすれば、同一期中とはいえ、時期の異なる支出であるFに対する二〇〇〇万円と被告人甲野に対する二〇〇〇万円について、それぞれについての建築対土木の負担割合が異なっているのはむしろ当然というべきである。

ウ 次に、被告人甲野に対する二〇〇〇万円につき、出納伝票にLの印がなく、それ以外の複数の者の印が押捺されている点については、次のように解することができる。

右出納伝票は、使途不明金を捻出するためのものであるだけに、通常の伝票の形式を装う必要があると解することができる。そうすると、土木部あるいは建築部に係る既決算修正伝票の「起票」欄中の「担当者」及び「責任者」欄には、(恐らく各部の)担当の係員及びその上司の印が押捺されるのが通常であると考えられるのであって、当時経理課長の職にあったLの印影がないことをもって、不自然とみることにはならない。現に、弁護人が指摘する六枚の伝票(被告人甲野に対する二〇〇〇万円の原資捻出に使用したとされるものである。)の各印影をみると、そのうちの土木既決算修正伝票三枚における各印影は同一のもののようであり、また、建築既決算修正伝票三枚における各印影も同一のもののように認められる。

エ さらに、右出納伝票には各部長の印を押す欄がないことから、同一の形式と推測されるFに係る伝票にも両部長の印は押されていないのではないかとの点等については、次のとおり解することができる。

当該出納伝票につき、通常の伝票の形式を装おう必要があると解されることは右に述べたとおりである。ところで、建築部長及び土木部長の印をもらうのは、当該使途不明金の割り付けに関して両部長が承認したことを明らかにするためであるというのに対し、当該出納伝票は、形式上交際費のものであるから、そこに用意された捺印欄は形式である交際費に関する出納につき承認する趣旨のものであると考えられる。したがって、そこに使途不明金の承認に係る建築ないし土木部長の捺印欄が設けられていたら、通常の伝票とは異なった形式になることとなって、かえって不自然であると解されるから、仮に両部長が押捺したとしても、欄外に押捺したと解すべきである。

しかし、さらに翻って考えてみると、Kは、使途不明金を捻出するための伝票には、その分を工事原価に計上することになる建築部長及び土木部長の印鑑が必要だと供述しているが、両部にとって重要なのは、前述のとおり、支出された個々の使途不明金における割り付けの割合ではなく、それぞれの期を通算しての両部の負担割合であり、また、そのような支出が使途不明金として計上されることであると解される。そうすると、そもそも使途不明金を捻出するための個々の「伝票」に、必ず両部長の印鑑が押捺される必要はなく、別途の帳簿等に押捺されてもよいはずである。この点からすると、Kの右供述は、その限りで思い違いの可能性もあるが、いずれにせよ、この点をもって原資の捻出に係るKの供述全体が信用できないこととなるわけではないのは明らかであるから、弁護人の前記主張は採用できない。

(四) 被告人乙川の弁護人は、Jが、九月末に税務調査が予定されていたのでFに渡す二〇〇〇万円を用意するのは一〇月に入ってからにしようと考えた旨供述している点をとらえて、税務調査は既になされた申告に対して行われるのだから、それ自体おかしいと主張する。

しかしながら、使途不明金を捻出しようとしている当事者が、税務調査において、調査時点の年度の出金についても当該申告が適正であるかどうかを比較検討するなどのために調査されるおそれがあると考えて、右調査の終了まで使途不明金の捻出を見合わせることは十分考えられることであるから、弁護人の右主張も採用することはできない。

(五) さらに、被告人乙川の弁護人は、捜査段階におけるDの供述調書の内容と公判廷におけるDの証言の内容を比較すると、交付時の状況等交付時期にかかわる具体的供述の内容が大きく変遷していることなどを挙げて、Dの供述は信用できないとする一方、捜査当初あるいは公判段階において、金員を受領したのは本件期間の数か月前であるとしていた被告人乙川の供述を信用すべきであると主張する。

しかしながら、既に述べたように、交付時の具体的状況についてのDの記憶があいまいなことは、供述時点までの年月の経過等を考慮するとむしろ自然であると考えられる一方、授受の時期が選挙直前の一一月二五日ころか、それともそれをさかのぼる数か月前であったのかは本質的な違いであって、Dにとってその点の記憶があいまいになる可能性は少ないと考えられる。そして、Dは、捜査及び公判を通じて、被告人乙川に現金を交付したのは平成四年の一一月二五日ころであった旨一貫して述べているのであるから、その供述の信用性は高いというべきである。これに対し、同被告人の供述は、捜査段階でも度々変遷しており、また、全体として、出来事を正確に記憶し、正しく表現する能力を疑わせる部分が多く、同被告人の本件日時に関する供述をたやすく措信することはできない。

二  賄賂の趣旨及び被告人乙川の認識について

1 ホの再開発ビル受注のねらいの有無

検察官は、公訴事実において、ホから供与された一〇〇〇万円の趣旨について、仙台市が今後発注する予定の仙台駅北部第一南地区再開発ビル新築工事(以下「再開発ビル工事」という。)につき、ホが指名競争入札の入札参加者に指名されるなど便宜な取り計らいを受けたい趣旨があったと主張している。しかし、ホが再開発ビル工事の受注を目指して営業活動を行っていたと認めるに足りる証拠はなく、右事実を認定することはできない。

2 個別具体的工事についての被告人乙川の認識の有無

検察官は、判示第三1の事件につきホが高速鉄道南北線泉中央駅工区新設工事を受注したこと及び葛岡清掃工場建設工事を日立造船株式会社が受注した結果、ホが下請受注したこと、並びにホが仙台市葛岡粗大ごみ処理施設建設工事を今後の受注目標に挙げていること、判示第三2の事件につきニ建設が泉中央土地区画整理事業南北大通線整備工事を現に受注し更に仙台駅北部第一南地区再開発ビル新築工事を今後の受注目標に挙げていることを、被告人乙川においていずれも認識していた旨主張する。

しかし、関係証拠を精査すると、被告人乙川が、葛岡清掃工場建設工事をホが下請受注したことを認識していた事実は認定することができる(市長・ホ事件乙八号証)ものの、ホが高速鉄道南北線泉中央駅工区新設工事を現に受注したこと、仙台市葛岡粗大ごみ処理施設建設工事を今後の受注目標に挙げていること、及びニ建設が泉中央土地区画整理事業南北大通線整備工事を現に受注したことを被告人乙川が認識していたことを認定するに足りる証拠はこれを見いだすことができない。また、ニ建設が仙台駅北部第一南地区再開発ビル新築工事を今後の受注目標に挙げている点については、被告人乙川の検面調書の中にこれを認識していたことを窺わせる記載がある(市長・ニ事件乙一一号証)が、そのような認識をなぜ同被告人が有するに至ったのか、その経緯や理由が記載されてはいないため、右検面調書を直ちに信用することはできないものといわなければならない。

しかし、同被告人が、「経済の活性化を考えていた甲野知事の政策であれば、公共工事も増え、業者にはビジネスチャンスが広がるので、業者はそういう営業的な意味があって金を出すのだと思う。営業的な意味がなければ金を出すはずがない。自分なら知事に喜んでもらおうと思って金を出す。」と供述していることは既にみたとおりであり、同被告人の右認識内容に加えて、関係証拠によって認められる判示第三の各犯行に関する供与金員の額、金員供与の経緯、態様等を総合して考察すれば、被告人乙川に判示第三に記載した各犯罪が成立することには疑問を入れる余地はない。

(法令の適用)

被告人甲野の判示第一1及び第二の各所為はいずれも平成七年法律第九一号附則二条一項本文により同法による改正前の刑法六〇条、一九七条一項前段に、被告人乙川の判示第一2の所為は同法六〇条、一九八条に、同被告人の判示第二、第三1及び2の各所為はいずれも同法六五条一項、六〇条、一九七条一項前段にそれぞれ該当するところ、同被告人の判示第一2の罪については所定刑中懲役刑を選択し、被告人甲野の判示第一1及び第二の罪、並びに被告人乙川の判示第一2、第二、第三1及び2の罪はそれぞれ同法四五条前段の併合罪であるから、それぞれ同法四七条本文、一〇条により、被告人甲野につき犯情の重い判示第一1の罪の刑に、被告人乙川につき犯情の最も重い判示第二の罪の刑に、それぞれ法定の加重をし、各刑期の範囲内で被告人甲野を懲役二年六月に、被告人乙川を懲役二年に、それぞれ処することとし、被告人両名に対し、同法二一条を適用して未決勾留日数中各三〇〇日をそれぞれその刑に算入し、被告人甲野が判示第一1及び第二の各犯行により収受した賄賂は没収することができないので、同法一九七条の五後段によりその合計価額一億二〇〇〇万円を同被告人から追徴することとし、訴訟費用のうち、別紙一記載の証人に支給した分については刑事訴訟法一八一条一項本文により被告人乙川に、別紙二記載の証人に支給した分については同法一八一条一項本文、一八二条により被告人両名に連帯して、それぞれ負担させることとする。

(量刑の事情)

一  本件は、判示のとおり、宮城県知事であった被告人甲野と同県内で材木会社を経営すると共に政党地方支部の役員をしていた被告人乙川にかかる贈収賄事犯であるところ、これを要約すれば、判示第一の犯行は被告人乙川がイ名誉会長Aらと共謀の上、被告人甲野に現金一億円を供与した事案、判示第二の犯行は被告人両名が共謀の上、ニ建設から現金二〇〇〇万円を収受した事案、判示第三の犯行は被告人乙川が仙台市長Fと共謀の上、ニ建設とホから合計三〇〇〇万円の現金を収受した事案である。

二  被告人甲野は、県民に支持を訴え、選出されて知事となったのであるから、その負託にこたえ、県職員を指揮監督し率先して廉潔、公正に職務を執行すべき立場にあったにもかかわらず、自ら合計一億二〇〇〇万円もの高額に及ぶ賄賂を収受して、県民、さらには国民の地方行政に対する信頼を大きく裏切り、その結果一時県政を混迷のふちに陥れたものであって、その刑責は誠に重大である。そして、本件犯行が発覚しそうになるや、収受した賄賂の一部を返還した上で知人と口裏合わせを行い、また公判廷においては、現金がゼネコンからのものだとは知らなかったとか、Aが開発事業に関与しているとは知らなかったなどと述べて賄賂性の認識を否認するなどの態度をとっている点も非難に値するというほかない。本件金員の使途、目的が仮に選挙資金又は政治資金であったとしても、その原資を本件のような金員に求めてよいはずはなく、したがって動機にそれほど酌量の余地はないことや、汚職事犯が後を絶たず綱紀粛正が強く求められている現下の社会情勢に照らしても、同被告人に対しては厳正な処罰をもって臨む必要がある。

三  次に、被告人乙川についてみると、同被告人は自らの関与する開発事業に絡んで被告人甲野に賄賂を贈ったばかりか、公共工事を受注する立場にあるゼネコンが知事又は市長に賄賂を贈る意思のあることを耳にするや、知事らのいわば窓口としてこれを受け取ったものであり、犯行の過程に躊躇のあとはみられず、過去二回の市長選挙などの際にFのためにゼネコン各社の提供する金を度々取り次いでいたことにもかんがみると、同被告人はこの種の行為に関与することで自己の政治的影響力や経済的地位を引き上げ、これを維持しようとしていた形跡も窺われる。したがって犯行の動機、経緯に酌量の余地はなく、また、同被告人を通じて授受された賄賂の総額は、一億五〇〇〇万円もの高額に及んでいること、被告人甲野と供与者の間には特に個人的な交際はなく、被告人乙川の存在は本件犯行の実現に当たって重要な意味を有していたこと、公判廷において賄賂性の認識についてあいまいな供述をしていることなどの事実に照らすと、同被告人の刑責も重いというべきである。

四  しかしながら、他方において、被告人甲野については、賄賂を収受したのは被告人乙川からの働きかけに基づくものであって、これを要求して取り立てたというのではないこと、賄賂者の行う事業に対して特段有利な取り計らいを行ったと認めるに足りる証拠はないこと、収受した賄賂を自己の個人的用途に費消した形跡は窺われないこと、町長及び知事としてこれまでにそれなりの実績を上げて地方自治の振興にも貢献し、二期目の知事選では圧倒的な大差で再選を果たすなど県民の高い支持も得ていたこと、本件収賄容疑で検挙された結果、広くマスコミに報道されて厳しい社会的非難を浴び、知事の地位も辞するのやむなきに至っていること、県政を混乱させた責任について強い反省の念を表明していること、逮捕されて以来相当長期にわたって身柄の拘束を受けたことなど、同被告人にとって斟酌すべき事情が認められる。

五  また、被告人乙川についても、知事及び市長に関する三件の収賄事件はいずれも取次ぎを依頼されて関与するに至ったものであり、また知事に対する一億円の賄賂事件についても、判示のとおり、同被告人が発案してAを巻き込んだとまで認めるに足りるだけの証拠はなく、同被告人が各犯行を主導していたとは評価できないこと、収賄罪に加功しているとはいっても同被告人に直接的な利益があったわけではないこと、材木業界の役職に就いて団体としての活動を取り仕切るなど一定の社会的貢献を果たしてきたこと、本件犯行をマスコミに報道されて強い社会的非難を浴び、謹慎の意を表明していること、逮捕されて以来相当長期間にわたって身柄の拘束を受けたことなど、同被告人にとって斟酌すべき事情が認められる。

六  しかしながら、前述した本件事案の悪質性、結果の重大性等にかんがみると、被告人両名の刑事責任は相当に重いというほかなく、被告人両名を主文掲記の実刑に処することはやむを得ないものと思料する。

よって、主文のとおり判決する。

(求刑、被告人甲野につき、懲役四年及び追徴一億二〇〇〇万円、被告人乙川につき、懲役三年六月)

(裁判長裁判官 若原正樹 裁判官 登石郁朗 裁判官 佐藤弘規)

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